自由からの逃走

BaBaQueを解説しようとしてつい自由の恐怖を語ってしまうのは、ひとつには自由の恐怖について何も語ってないからですよ。前稿からの続きです。

「自由の恐怖 Fear of Liberty」発売当時、このやんぐの衛生日記を利用して自由の恐怖についていろいろ解説をぶち上げるつもりだったんですが、第一回の「Fear of Liberty -自由の恐怖」できたので秘話で頓挫してそのまま放置ってしまいました。友人の死が堪えて何かを語る気が指先から雪崩れ落ちてキーが湿って打てなくなったからでした。そしてその後完全に目論見を忘れていました。

そんなわけで今から続きというか捕捉行くわけですが、自由の恐怖というタイトルはもちろんフロムの「自由からの逃走」と同じ意味です。逃走するのは自由への恐怖からですからね。

自由からの逃走 E・フロム

なぜドイツ人がナチスに傾倒していったのか、その分析を通して人の根源に迫りつつ明日を生きる知恵と勇気まで得られる名著「自由からの逃走」は近代国家の文明人なら必読の書ですわな。独裁国家の後進国のボケ住民なら読まなくて結構だよ。読んでも意味分からないだろうし。

映画監督ファティ・アキンもフロムにかぶれていたことを語ってますし、それでわしも勇気を得てフロムかぶれしていたことをカミングアウトしてもいいんじゃないかと思ったわけです。人は学べばどんどん先に行きますが、だからといって基本的なことを素通りして他人にそれを前提としていることを強要するとコミュニケーションも成り立たないし何より独りよがりで生意気です。

ざっくり言うと人は元々自由なんか求めていなかったのに、はいデモクラシーはい人権はい自由と自由を得てしまったら、自由を勝ち取り謳歌する人がいる一方で、そうでない人が大量に発生してしまった。

「わしどうしよう、自由言われても何してええかわからんやんか、人を貶すことくらいしか思い浮かばんで。何したらええのかわからんし何処にいっていいのかも分からんし、こりゃ困ったな、偉い人にどうしたらいいか教えてもらいたいわ。お、偉い人があそこにおるぞ。言うこと聞いとこ、なになに?あれせいこれせいこれしたらあかんあれしたらあかん、ふむふむ、わかりやすいぞ。なになに?煙草を差別しろ?してこましたろやないの、なになに?障害者がわしらに迷惑掛けてる?そうなんか、あいつら最悪やな。なになに、外国人のせいでわしら景気悪うて貧乏なんやと?そうかあいつらが悪いんか、あいつらのせいでわしら貧乏なんやな、ほな殺そ。これは気持ちいいわ。ほんま気持ちいいわ。わし、かしこになったわ。なになに?偉い人を貶しとる奴らがおるぞ。偉い人を貶すとはあいつらきょさんしゅぎ者やな。あいつらも懲らしめとこ、あいつらアホなんやて。嘘の歴史教えるらしいで。偉い人がそういうとった。つぎは何したらええのかな、なんでもしまっさかい何でも言うてな。あー人の言うこと聞くの気持ちいい、あー自由を縛るの気持ちいい」と、こういうことですな。ちょっと違うけど大体こんな感じ。ナチスに傾倒する自由が怖い庶民たちは当然ながら現状日本のアホどもと何ら違いはありません。全く同じです。

ということでこれが「自由からの逃走」ですが(なんか大分違うような・・・)こういうことを観察して分析して丁寧に書かれた「自由からの逃走」含め他のフロムの著書は今読んでも、否、今読むからこそ背筋が凍ること請け合い。

悪について E・フロム

愛するということ E・フロム

生きるということ E・フロム

破壊—人間生保解剖 E・フロム

つまり人間てのは全員ではないが多くが自由を恐れてるんです。「自由はよいこと」と思ってる人なんか少数ですよ。ここ引っかかりますね。引っかかりながら続けますが、自由や人権に文明人としての責任があるとすれば、それは「義務」や「交換条件」ではなくて、ずばり知恵と知識と博愛です。つまりアホには無理なんです。よく自由には義務が付きまとうのだと交換条件みたいに言う人おりますがあれ嘘ですね。交換条件があって義務に雁字搦めなのは自由とはいいません。

日本が独裁国家に堕ちて回りを見渡し気持ち悪いファシストどもを見て判る通り、知識と知性のない人がファシズムを支えます。知識と知性だけでなく、博愛や友愛という概念もありません。知識と知性は博愛に直結しますからね。どうしてでしょう。想像力という大事なものがあります。想像力なしに博愛はありません。想像力は賢さです。ということはどうですか?そうですね、これはスパイラルです。知識がないと知性が生まれません。知性がないと想像力が生まれません。想像力がないと博愛はあり得ません。博愛がないとは即ち単純思考のアホということで、アホには知識を得る動機も方法も知る術がありません。このスパイラルはなぜ起きるのでしょう。自由が怖いからです。

しかしそれだけではもちろん納得出来ないのでありまして、重要な要素がひとつあります。貧困です。古今東西、この貧困というものこそがすべての悪の根源におります。貧困は人間から想像力を奪い博愛を奪い知性を奪います。

ですので犯罪やファシズムの抑止は貧困を避けることです。つまりどうですか?逆の立場であなたが独裁者で犯罪やファシズムを行いたければどうしますか?そうですね、庶民を貧困にすればいいんです。簡単な方法です。これに対抗できる術は庶民にありません。ですのでがんばる一部の人が声を上げて何を優先するかというと、読み書き・教育ということになります。小さな事からコツコツと、人間を文明人たらしめるのは教育です。フロムもファティ・アキンもみんなそう言うとります。そのへんの話はやんぐの衛生日記やMovieBooに飽きるほど書いてるから読んでる人にはお馴染みのいつもの話です。

スノータウン MovieBoo
プレシャス MovieBoo
アメリカンクライム MovieBoo

そんなわけでファシストどもにとって自由は恐怖であるという話で、これが「奴らの恐怖」です。もうひとつ、それを踏まえてですね、こちら側の恐怖についても言及しないではおれません。自由を恐れるファシストどもの恐怖は形としてどうなりますか。そうです現状のようなことになります。自由を恐怖する連中がやることはただ一つ、自由を刈り取ることです。徹底的に自由を破壊します。ついでにもちろん個人というものも剥ぎ取り刈り取ります。知識や文明も刈り取ります。先人の知恵も歴史も刈り取ります。刈り取られた世界で、我々は恐怖におののきます。

「自由の恐怖」というタイトルはこういう基本的な認識をベースにしていますよという宣言ですし、知性を身につけましょうという呼びかけです。

音楽と何か関係あんのか?あります。音楽や美術や映画やいろんな芸術事ってのは、教育の次に必要な人間の証明で文明人の砦です。表現者は常に自由の側に立ち人間性を剥ぎ取るあらゆる悪徳と対峙せねばなりません。

戦時中や今の日本のように、表現者が独裁者に媚びて太鼓持ちをしたり独裁に加担してはならんのですよ。世が平和で文明的ならいいんですが、そうでないときには覚悟が必要です。表明も必要です。おい聞いとんのかそこのヘタレの権力に擦り寄るクズ表現者ども。

と、いうようなことでして、2011年の地震以来急激に独裁国家化が進む中「自由の恐怖 Fear of Liberty」というタイトルの音楽集を出す意味のひとつはこういうことがあったという、CD出たときに書くはずだったお話です。

1990年代後半から不況と共にファシズムの芽が育ってきているのを肌で感じていて、2005年前後には例の弱者に痛みと自己責任と無知無教養と利己主義を与え不可逆的決定的に日本を奈落へ突き落とした政権の時期がありました。地震と原発事故が起きた後に登場した史上最悪のアホ政権失礼安倍政権とその支持者の狂乱ぶりは最早何から手を付けて良いのかわからないくらいの堕ちっぷりですでに救いはありません。ですのでこの国は絶望で覆われており唯一個人ができる解決策は海外に逃げることです。それが出来ない人はどうしましょう。どうしましょ、どうしましょ、と居直ってしまうタイミングが今ですね。そうです。「BaBaQue」の時代です。みんなと一緒になって「どうしましょったらどうしましょ」と歌いながら踊るのが「BaBaQue」です。

BaBaQue: Un poco de miedo

です。とか言っててええのかわし。

つづく