自由は旅であるか – Nezshiはエクアドルを離れる

精神分析的に研究もされて社会心理学的に同意も得られている自由と恐怖についての考え方のベースを再確認したのが前回までのあらすじですが、そこで留まっているわけではなくもうちょっと先の話があります。ここから先は学術的な信頼はありません。個人の思想というか思いつきというかそんな話になります。

自由を恐怖する人と自由を求める人

自由を恐怖する一群がいる一方で自由を真に必要としている一群もまたおります。その中でさらに極端な一群がいて、これについても映画感想にかこつけて散々語ってきました。時にはボヘミアンという言葉を使ったり芸術家や思想家と呼んでみたり犯罪者と言ってみたり社会不適合者とか駄目人間とか言い方は異なっても同じタイプの自由人を指していて、それでいろいろ語った来たわけですがそのベースとして何があるのかというと、社会と自由は基本的に相容れないということであります。

社会

社会はそもそも自由を縛ることを前提として成り立つものです。なぜ自由を縛ってまで社会が必要かというと生物的に自明で、それは弱い個体を守るためです。本来自由である人間ですがただふらりふらりと自由にやっていてはどうにもならず、あっという間に死に絶えます。滅びないために社会を作って弱い個体を生き延びさせます。こうして種は継続しました。

社会にはルールがあり自由とトレードオフの関係ですが生存のための社会であればルールに従うのが動物として当然のこととなります。さてそこで問題となるのは社会の規模、ルールの規模です。

人間が本来自由であるのなら社会の規模やルールは最低限のものになるはずです。それがいつか膨張し度を超してきます。種を継続させる賢い方法であった社会そのものが種の個体に牙を剥きます。人間というのはアホになりはじめるととことんアホになりきれる柔軟性を持っていて、やがて「社会を守るために個体が生け贄になるべきである」とかいうトンデモまで飛び出す始末です。個体を守る社会が権威となり個体を脅かすようになるわけですね。社会が膨張すると統治する必要がありますが、統治するメンバーもまたか弱き個体にすぎず、欲望に負けて必ず腐敗します。

政治腐敗の話がしたいのではなくてですね、個体のうちの多くが自由を恐怖するようなファシストと化してしまうことに恐怖を感じるという前回の話と繋がりますが、ちょっと難しい話になるので慎重に行きます。

まず社会と漠然と言うのは前提がでかすぎるので分けましょうか。単に社会だと家族だけの群れや数家族の部族というものまで含みますから前提が広すぎますからね。ルールというとき少数部族と大国家では意味も異なってきますから。そうですね、国と言ってもいいですかね。

国とは何ですかという、ナポレオンが作ったと言われてますけど、面積が広すぎて個体の認識でカバー仕切れないこの国という概念、単に戦意高揚のための詭弁で生まれた政治的な意味の国というのはちょっと置いといて、もう少し広い意味での国、即ち故郷という意味を含む国というレベルで行きます。ナイーブな話は言葉の定義がいちいち難しいすね。

以前「さあ帰ろう、ペダルをこいで」の感想の中でこんなことを書きました。

ちょっと話はそれますが国とは何でしょうか。
人が「国」と言うとき、それは何ですか。私にとってそれは山であり空であり季節であり街であり建物であり路であり家族や猫であります。食べ物であり空気であり水であります。お気に入りのお店であり気の置けない友人たちであります。そして言葉でありコミュニケーションであります。
国と言うとき、決して政権を担当している政党なんかを指しません。もちろん首相でも内閣でもありません。神様気分で制度を動かしている官僚組織やマスメディアでもありませんし、法律でも条令でもルールでも何でもありません。妬みとざまあみろで発狂した相互監視の全体主義集団でもありません。これらは単なる制度であり国とは何の関係もありません。
さあ帰ろう、ペダルをこいで – Movieboo

さあ帰ろう、ペダルをこいで

ちょっと余談ですが、この感想文に「故郷も制度も込み込みで国なんだよね」というコメントを書かれましてね、これどうしようかと。馬鹿らしくて返事することもできずにいたんですが、文章というのはほんとむつかしいもので、読み手のレベルなんか一切分からないわけですからどのように読まれているかなんてマジまったくわからないんですね。これに比べたら本稿などはより複雑で観念的でポエミーなことを書きますから大丈夫かとちょっと心配でもありますが

アフリカからの旅

さて唐突に人間の誕生です。人間というのはアフリカ大陸で生まれたというのが学問的にはすでに常識のようですが、アフリカ大陸で生まれた人間という動物は小さな社会を形成し弱い個体を守ることで種として生き延び、生き延びただけではなく、彼らは旅をしました。

人類がどんなコースを旅して世界に散っていったかを表すアフリカ大陸から世界中に赤い線がぴゅーっと延びる図を見たことありますよね?車も飛行機もiPhoneもない時代に人間たちは旅をし続けました。

人間が本来自由であるという由来はここです。人間は想像を絶する距離を旅してきました。多分小さな社会を維持しながら、どの土地にも根を下ろさず常に移動し続けたわけです。住む場所を固定しないという究極にして根本の自由がここにあります。人間が本来自由であるという主張もこれに由来します。

旅を続ける中で、あるものたちは「ここ気に入った!わしらここで住むわ!」と旅をやめて根を下ろします。各地で根を下ろす人々がおりました。これが民族と国の始まりです。旅をやめて住処を固定し、社会を固定します。固定した社会は膨張し、ルールはさらに複雑化し、自由を排除しはじめます。膨張した社会はルールの厳格化を避けられません。社会を維持するために当然そうなります。そして根を下ろす人々、国を作った人々がルールと支配を好む人たちであるという道理はここから生まれます。

旅をやめた人、続ける人

なぜ人は自由を恐怖するのか、なぜ独裁者を好むのか、なぜ油断するとすぐにナショナリズムに乗りファシズムに溺れてしまうのか、根っこの理由があきらかになりました。社会適合者たちは旅をやめてしまった人間の末裔だから制度に縛られることを好む人たちなのです。

旅を続ける人々は現在も存在します。しかし圧倒的に少数であり、これまで差別を受けたり保護されたり嫌われたり憧れられたりしてきました。ボヘミアンとかジプシーとかロマとか言われていますがそれらは単に文明国側の人間が「あっちのほうから来た人たち」という意味で近場の土地名を付けたに過ぎません。総称というのはないように思いますが詳しく知りません。

彼らが遙か昔アフリカで発祥して以来旅を続けている一群であるというつもりは毛頭ありませんが、思想的ポエム的には存在がその続きと同等であると思わないでおれません。定住しないという生き方は他の全ての定住を基本と考える人たちと根本的に相容れないものがありそうです。そして定住文明人の中にも先祖返りで自由を強く求める一群が常に一定数います。そうです自由人別名ボヘミアニズムの人たち別名社会不適合者あるいは音楽や芸術や思想哲学にうつつを抜かす人たちです。ボヘミアニズムの一群を社会不適合者と言う相応の理由があったということです。

人類は本来旅する自由な生き物であるという考えそのものが己がどういう一群に属しているかという現れです。別の人はこう言うでしょう。「何を言うとんの。旅は一過性のもので、定住して社会を発展させた人類のほうこそ”本来”でしょうが」どっちも何の根拠もなくそう思うだけという話しで、どっちの原理主義も単なるポエムです。で、わしにはそうは思えない。思うのは自由。続けます。

人間という動物は自由で旅する生き物であるとポエミーに続けますが、旅をやめて社会に帰属するのもまた人間、しかしそれは旅からの脱落です。脱落したほうが文明が発展し凄いことになりますが凄さと脱落は両立します。現在旅を続けている人間はほとんどいなくなっています。先祖返りした自由人による思想としての自由は確かにあります。わしにだってありますし。定住人にだって立憲主義やデモクラシーがあります。人権という大発明も果たしていますし、自由と社会を両立させようと賢い人たちはいろいろ考えました(アホが潰しますが)しかし、人類という種として、旅を続けることこそが生存の証であると極端なことを言うならば、すべての人類がもし旅をやめてしまったら、それはもう人類のお仕舞いではないのかと思えてなりません。

このことはMovieBooでは「パプーシャの黒い瞳」の感想の中でも書きました。

パプーシャの黒い瞳

もともとアフリカで生まれた人間は、長い旅をして各地に散らばりました。旅の途中で留まる人たちが民族となり国となりました。そういう人たちのシステムですから制限を好む傾向にあるのは当然かもしれません。しかし人間の旅はまだ終わっておらず、旅するひとたちというのがまだおります。でも減ってきています。人間の旅は終わりなのでしょうか。もしかしたら、旅の終わりは人間の終わりなのかもしれませんよ。
パプーシャの黒い瞳 – MovieBoo

現実に旅する部族の減少を指しますし、象徴的な意味で旅をやめることは自由を放棄するという意味です。旅の終わりは人間の終わりです。

音楽は基本ダンスであると前にどこかで言いのけました。それはそれで合ってます。でももう一つあります。それは旅です。音楽の根っこには旅があります。旅してなんぼです。旅をより強く感じるために時としていろんなものを使うのもいいでしょう。ヴァンパイアなら血を飲みます。いろんなものを飲んで旅できればいいんじゃないかと思いますね。ここで言う旅はまたちょっと違うニュアンスを含みますね😀

唐突にヴァンパイアなどと書いてしまったのでリンク貼っときます。

オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ

本稿と「自由の恐怖」と「BaBaQue」

チルドレンクーデター「自由の恐怖」は前回の「自由からの逃走」のような基本的なことをベースに置いていました。我が国の惨状におののいてポエミーに浸っているような余裕はありません。本稿は「自由の恐怖」と直接関係しません。

BaBaQue Un poco de miedo」はバンドでなく個人の作品ということもあって、あと惨状が度を超してしまい諦めが入ってきたためかテクニカルでクールであると同時にドラマチックでありポエミーにも寄っています。より旅を意識しているのはお聴きになればお分かりかと思います。

Nezshi deja Ecuador

今回このポストはタイトルにBaBaQueから曲名を一つ入れてみました。NezshiというのはTwitterなどで使ってるアカウント名です。エクアドルは歴史的に興味ありますが行ったこともないしどんなところなのか全く知りません。アフリカ話でいうと中国大陸から南下して日本に辿り着いたのが我々、東の果ての海峡を渡ってからとてつもなく南下したのがオリジナルアメリカ人です。北アメリカのオリジナルアメリカ人には蒙古斑があるそうです。蒙古斑がある我々の遠い親戚だそうですよ。エクアドルの人に蒙古斑があるのかどうかさえ知りません。この曲にとって現実のエクアドルにはあまり意味がありません。

Nezshi deja Ecuador はaudiomackのφononページからも試聴できます。他の曲も聴けます。

https://audiomack.com/album/onon-1/babaque-excerpt?t=1&track=5

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少し違う想像

旅を過度に理想化しているように読めてしまうかもしれないので少し違うパターンの空想も追記しておきます。

世界に散った旅する人々が必ずしも自由気ままに動いたのではないという想像ですね。みんな誰しもいい場所見つけて住みたいわけです。でもそこで諍いが起き、地域社会にフィットし貢献できる多数派がフィットできない少数派の人々を追い出します。そしてやむを得ず旅を続けるというストーリーです。旅は楽しくふわふわした自由ではなく、追放されてさまよう恐怖を伴うという解釈ですね。この記憶が社会不適合者の先祖返りにも残っており、過剰に多数派の従順な愚衆やファシストどもを嫌うのです。つまり恨みです。

この空想が面白いところは、例のアフリカから人類がどう旅したかを示す赤い線が延びた図でいうと、もっとも遠いところの人たちというのが「どの土地からも追い出され続けたろくでなしの自由人」みたいな見方もできてしまうところです。それによるとどの土地からも追い出され続けた人たちが最後に到達したその場所とは即ち南米ということになります。こりゃひでえ。

昔の人たちが南米探検に精を出したことがあります。アマゾン川を奥に進むと黄金の国があるなどと妄想して探検隊を送り続けました。かつて追放した末裔が地の果てで黄金にまみれているというその妄想がどこから来るか、精神分析SFとしてもう何となくお分かりですね。そして今「アギーレ」を思い出したあなたならBaBaQueもきっとお気に召すはず。

アギーレ/神の怒り

みたいな与太話も含めて歴史を空想するのもまたよし。歴史は修正するもんじゃありません。空想するもんです。