正義の発露

正義という言葉が気持ち悪くて嫌い。
正義が内包する悪に辟易しているからで、正義を前提にしている多くの行為や発話や記述にいかがわしさを感じているからだ。

一見正義であっても、そのほとんどは「ざまあみろ」と「カッコ悪」の二つの症候群に含まれたりする。ちっとも正義なんかではなくて、単なるストレス解消の矛先または全体主義的な安堵感であることは以前書いた(阿呆阿呆作戦、ざまあみろ症候群とカッコ悪症候群

正義の何が恐ろしいかというと、傲慢さと攻撃性だ。
なんせ正義だと信じ込んでるんだから異論を受け付けないし圧倒的自信があるし、有無を言わせぬ傲慢さに充ち満ちている。
そして悪を攻撃する。正義とは何かと端的に言うなれば「悪への攻撃性」と言ってしまってもいいほどである。
もちろんその時、正義と悪の解釈は己の中だけで完結しているから、攻撃対象である悪は疑いようのない悪であり、攻撃しても何ら問題ないと信じ込んでいる。疑いようのない悪を徹底攻撃するのは正義の行為であるという盲信がそこにあり、これが正義の恐ろしいところだ。

正義の名の下に行われる攻撃が残虐きわまりない行為へと発展するのはこのためである。

「攻撃」という言葉あるいは行為は、どちらかというと一般に悪に分類されるのであるから、もともと正義は悪を内包していることがわかる。

つまり正義は悪である。(このへんについては映画「アメリカン・クライム」の感想文にも書いた)

例えば神様は全能なのかそれとも善なのかという問いかけがある。一見、その二つは両立するように思えるけれども、全能と善は相容れない。なぜなら全能には悪も含まれるからだ。神が悪ではないとすれば、それは善なのであって全能ではないということになる。(映画「ルルドの泉」の中の問いかけ Movie Boo ルルドの泉)

神学論争的な話はわからないので置いといて、正義と善の違いがここで明らかになる。

正義は悪を攻撃するというのが定義上の結論だ。正義から攻撃性を排除すればそれはもはや正義ではない。かもしれない。
それに引き替え、善には攻撃というイメージは付きまとわない。だんだん自信がなくなってきたので印象だけで勝手に語っているが、善が内包するのは善のみであって、攻撃という悪を内包するのが正義である。悪の反対の言葉は善なのであって、正義ではないということだ。

言葉の定義はもういいとして、で、この正義という悪が世にはびこると碌でもないことになってくる。正義と相性がいい言葉は攻撃の他には排斥と全体主義である。

正義をまとった全体主義の糞忌ま忌ましさは現在の日本を見れば一目瞭然であり、この件について語るときに最早「戦時中は」という言葉は不要だ。

キャッチコピーと阿保阿保作戦で庶民を全体主義に染め上げるのは非常に容易なことで、2000年代の小泉旋風とやらでそれはもう完成している。
染め上げられた間抜けな庶民は、その思考がまるで自分自身で考えついたかの如く洗脳の言葉を吐き続ける。それは彼らなりの正義の発露であり、端で見るとただの吐瀉物である。

ネットではテレビを見ている人間を馬鹿にする風潮があるが、テレビ洗脳組とネット洗脳組には何の違いもない。どちらかというとネット洗脳組のほうが学力があったりする分、より悪質とすら言える。

洗脳された正義組が愛するものは幼稚園的ルールであり神経症的マナーであり判断力を欠いた中立志向であり他者依存のソースであり善性の欠落した相対論である。
それがそれぞれどのような発露を見せるか具体的に示していきたいところだが、だんだん面倒臭くなってきたのでこの項はここで辞める。元々それを書こうと思っていたけど前置きが長すぎて飽きてきた。
じゃあまたね、ばいばい。