single-content

ERSとTTS

the site image

昔はアートに対する自分の考えが決まっていた。カート・ヴォネガット先生がおっしゃるような炭坑のカナリア論だ。これは文筆家だけに当てはまるものではなく、広くアートの定義になり得る重要な発言である。
アーティストはその強い表現力のため存在感が大きいが実は神経質で過敏なか弱い生き物であって、他の鈍感な生物がのらりくらりとやっているその時にも、ひとりアップアップして取り憑かれたように表現の世界へ逃げ込む特性を持っている。
そんなわけでアートに対する動機の一つは紛れもなく悲鳴や懇願、啓蒙や反省、絶望や破滅、そして死と恐怖だ。
個人的な絵画作品や音楽による表現は基本的にこういったタナトス方向を基本として成り立っておる。いや、おった。
ところがだ。思春期の性欲に支配された暗部強調によるアートなど所詮はタナトスぶりっこにすぎないのであって、アート作品であるチルドレンクーデターの音楽には初期を除き破滅や破壊よりも実はエンターテインメント性が目立つような部分が多かった。これはやはり音楽の官能性、リズムの普遍性、コミュニケーション性、芸事性のためで、言わば生への能動的方向性つまりエロスによるものである。
破壊的な音楽と言っても所詮酒場のドンバなわけだから、タナトス方面のアート思考など最初からほんの少ししか出さないのである。
このようにエロスとタナトスは常にその両面を同時に持っていて、若干の強弱があるにすぎないわけで、チルドや個人作品がタナトス方面の発現であることには違いないものの、さほど単純明快な破壊神ではないということを言いたかっただけだ。いやほんとは別にそんなに強く何かを言いたいわけではないのだが。
さてエロス=生への能動的な動きについては、アートのもう一つの側面であるところの装飾性へと話が向かう。
職業として装飾美術に関わったのは建築業界への反抗がきっかけで、これはまさしくタナトス方向の動機であるが、やっているうちにまたもやそう簡単な話ではなくなってくる。もともとアートの中で装飾性・大衆性については昔は全く興味がなく、装飾やポップ路線はアートではないとまで言い切っていたくらいだ。しかしながら世の中そんなに単純ではない。例え神童といわれていようと単なる変態少年の一時の思い込みだけで世界や歴史を単純化することはできない。
装飾美術には目を見張る技術、重すぎる歴史、優雅さ安心楽しさ落ち着き食欲性欲といった人々の感情を揺さぶる力が宿っている。
相反しながらも両立するエロスとタナトスというこのアートを司る根源物質、方や音楽や平面作品に、方や建築や商売にと真っ向対立する二面性の中でそれぞれ独立して存在させてしまったわしはというと、これは完全に多重人格者の世界なう。
なう言うてる場合じゃなく、そう言えば若い駆け出しの頃、タナトス活動については「決してクライアント様の前で口外しないように」と釘を刺されたものだ。それは何故かというと、いや書かなくても判るな。
こうして多重人格障害者のような二律背反の業を背負って生きてきたのであるが、よく考えてみれば本当にそれほど対立する方向性なのか?という疑問とともに、アート原子としてのタナトスとエロスに若干の強さの違いがあるだけではないのか、と都合の良い答えを導き出したりしようとしているのがつまりこの日の衛生日記の主題である、とまあそういうわけだ。
近年はインターネットという具合の悪いものが台頭しているせいで、破壊神的側面を黙っていようとどうしようと誰が何をやってるかぐらいはちょっと調べたら分かり分かりのバレバレの不透明度0の世界にすでになっている。
美しい装飾美術を手がける某が、死と破滅の芸術活動に勤しむ某と同じ人物かどうかぐらいすぐわかる案配だ。
実際、それによる弊害は出ている実感がすでにあるわけで、ここまで来たらさてどうしようかと。今更芸名を使い分けるわけにもいかず(ささやかながらやっているが)あれは同姓同名の他人のそら似だなどと偽りの世界に生きるわけにもいかず、こうなれば理論武装してどちらも真でありそれはアンチノミーにはならない、と自ら証明せねばならない。
アートの原子は複雑怪奇だが、いろんな考え方のうちのひとつにタナトスとエロスというものがある。タナトスは死と破滅、エロスは生と創造を司る。装飾美術にはエロスの側面が、アート作品にはタナトスの側面が多く発現する。ただしどちらか片方だけで成り立つものではなく、エロスの中にも死の側面が、タナトスの中にも生の側面が隠し味のように現れる。つまり両方あるってこった。ミクロな視点で見ると一つの作品の中にそれらが含まれることが見て取れるだろう。大きな視点で見ると、一人の人間の作品群の中にそれらを個別に見て取ることもできる。さらに大きな視点で見るとある人間が両方の成分を個別に発現させていることもあるだろう。つまり美しい装飾美術とノイズのような音楽やお化けの絵を同じ人物の矛盾しない作品群として素直に認めることができるという結論だ。
と、ここまで来て第三の人格が現れた。日曜大工に勤しむ物腰の柔らかいおじさんである。
誰だこれ(笑)
これはなかなか整合性がとれませんよ。
しかたがない、良きおじさんには理論武装を解除して独立して頑張ってもらおう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください