出張先にて

 出張がなかったら絶対にこんな所に来ることはなかったろうなあ。
何でもないちょっとした田舎町であるが、そこにわざわざやってきて旅館に泊まりしばらく滞在することの楽しみ。
 画一的でつまらないこの国の、どこにもあるような田舎町だが、どこか何か特徴や独自の味わいがあるというものだ。煮付けひとつとっても。そのためには二拍三日の旅行ぐらいではだめで、こうして一ヶ月以上もの出張生活が欠かせない。この味わいこそが仕事への活力、生きる目的と言っても過言ではない。
「味わいなどと、こりゃまた、君はいつから味わい派になったわけだい」
同僚が味わいたっぷりの山菜の煮付けを食べながら私に言う。「早く仕事を片づけて帰りたいよ、おれは」
「おれは帰りたくはないね。ここでのんびりしていきたいよ。食い物もうまいし。この山菜の煮付けなんか結構乙なもんじゃないか」
「山の紫」というらしい。小さな紫色の花を咲かす、どこででも見かけるあの小さな植物だ。山の紫もこうして調理すればなかなか旨いものなのだなあと感心する。

ちょうどそのころ波止場では闇の取引が行われていた。
だが、用意した現金はすべて偽物。方や用意した薬は太田胃酸である。緊張が漂い、お互いが相手を牽制している。数十分後、この場所で銃撃戦となり全員死亡することはまだ誰も知らない。

翌日、同僚と私は得意先の会社を訪れるため早朝から宿を出た。得意先の会社までは徒歩で行けるので、私たちはわざと路地裏の近道を通り抜け、道中を楽しんだ。
「嘘つけ。おれは楽しんでなんかいない」と同僚。「日差しがきつくて暑いからこうやって涼しげな裏道を歩いてるだけだ」
 だが路地の奥を突き進むのは探検気分である。路地の途中にまた路地があり、石畳の狭い道をくねくねと歩く。時には他人の家の庭や小さなバーを通り抜けなければならない。
「この店、良さそうだね。帰りに寄ろう」
バーを抜けてコの字型の路地を進むと今度は銭湯があらわれた。
「この銭湯も良さそうだ。帰りに寄ろう」
人一人がやっと歩ける砂利道の先には市場があり、見たこともない雑貨や野菜が売られている。「いいね、帰りに寄ろう」ひとりで楽しんでる。同僚は呆れたように私を見るのである。

ちょうどその頃、野外コンサートの特設会場ではサウンドチェックが行われていた。
「ちぇっくわんつー。わんつー」
だがバンドはまだやって来ない。照明のチェックも終わり、日が暮れてきたが、まだバンドは現れなかった。スタッフが焦り出す。

「すっかり暗くなってしまった。近道どころか、どうやら道に迷ったらしいぞ。その証拠にこれを見ろ。このバーは、最初に通り抜けたバーだ」
 同僚が疲労と苛立ちを込めてバーの入り口を指さす。「得意先にも行けなかった。お前がいちいち路地裏を味わっているからだ。どうしてくれる」
 私は嬉しくなって「じゃあ、ここで一杯飲もう」
 さすがに同僚も一杯飲みたくなってこの意見に同意した。
 カウンターだけの店内に入ると他に客はいず、くたびれた感じのマスターが一人ぼんやりしているだけだった。マスターは私たちに気づき、「いらっしゃい」と、ややぶっきらぼうに言った。
 そして私は彼を見て大いに驚いた。学生の頃よく行っていたジャズ喫茶のマスターであった。
 ジャズ喫茶を畳んだ後、流れ流れてこの街にたどり着いたのだろう。
 記憶の彼方へ追いやっていた濁った記憶が次々に蘇り始めた。
「マスター、おれですおれです。覚えてますか」私は感激してマスターに微笑みかけた。「こんな所でお店をやっておられたんですね」
 マスターは眉間にしわを寄せて私を見つめ、しばらくして「きみか」と答えた。若い頃の濁った記憶が徐々に形を作り始めた。
 あのジャズ喫茶が潰れた原因が自分にあったことを思いだした。そうだ。あの頃、エントロピーの増大を断ち切ろうと、さんざん世話になったあのジャズ喫茶に対して、考えられるありとあらゆる嫌がらせと営業妨害をした張本人こそこの私だった。
 マスターもそのことに気づいていたはずだ。私の膝がふるえだした。きっと恨んでいるに違いなのだ。
 だが昔のことだし、もしかしたら大目に見てくれるかも知れない。
「昔じゃないさ。つい、この前じゃないか」マスターが眉間のしわを緩めないまま静かに言った。「よくものうのうと入ってこれたもんだな」

 その頃、賢者は子供を連れて星空を眺めていた。
「星がでたらめに散らばっておろう」と賢者が空を指し示した。
「でたらめだね」子供が言った。
「だがよく見れば、整然と並んでいるのがわかるかな、坊やに」
 子供はしばらくじっと空を眺めていたがおもむろに「わかった。ほんとだ。綺麗に並んでいるよ」
「ほっほっほっ」賢者が笑った。「このように、普段見えているにもかかわらず、見えていないと思いこんでいることはたくさんあるのじゃ」
「ほんとだね。空にあんな大きな棚があるなんて、今日初めて知ったよ。でも今までも毎日見えていたのになんで初めて気づいたなんて思うんだろう。不思議だなあ」
「坊や、このことを家に帰ってお父さんに教えておやり」

「お前、ほんとに馬鹿だよなあ。自分の都合の良いことだけ覚えてるんだもんなあ」
ジャズ喫茶から逃げ出してまた歩き出しながら同僚が蔑んで言った。
記憶のあやふやさを思い知った私は、この意見に反論できなかった。
「仕方がない、なんとか宿に戻ってビールを飲んで寝てしまおう」
あれほど迷った路地裏通りだが、一歩表通りに出れば見慣れた場所であった。私たちは早々に宿に帰りついた。その夜はいつもより多めのビールを飲み、自慢の蜂の子を頂き、野球中継を見てニュースを見てから寝てしまった。

 ちょうどその頃、船の甲板に出るための階段に佇んでいる紫色の女性が後悔していた。だが論理的思考をする能力不足のためひたすら感情に溺れていた。従って物語は始まりも終わりもしなかった。

「今日こそは得意先に行くからな。裏道探検はなしだからな」翌朝、民宿で朝食を取りながら同僚が釘を刺した。
「仕方がない、じゃあどこかの喫茶店に寄ってから行くことにしよう」
 ところがその喫茶店とやらがどこにもなく、私たちは探しに探し歩いた。
 探し歩いている間も、変わった雑貨屋や農家の野菜売り、神社のお祭りなどに立ち寄ったため、コーヒーにありつけた時にはすっかり日が暮れていた。
やっぱり知らない田舎町は良いものだ。私は大いに満足してまずいコーヒーを啜る。

 その頃、銭湯では地震のため湯船から湯が全て漏れ落ちてしまっていた。
 洗い場には砂が染み出ており裸足で歩くと足の裏が砂利だらけ、こりゃたまらん、と歩く先には「電車湯」なるものが。お。これなんだろう、と電車湯の重い扉を開けると、そこは電車。木の床、四人掛け用の向かい合った座席の古臭い電車だ。
 人は誰もいない。おどおどしながら、座席に腰掛けてみる。素っ裸で電車の椅子に座るという気恥ずかしさは座ったとたん消え失せた。座席の背中は、温かい湯が薄い滝のように流れ落ちる仕組みになっており、背中全体を暖めてくれる。極楽。

「見ろよ、自家製の塩肉だってよ」
 翌朝、民宿の台所で、呆れる同僚を後目に私は民宿の爺さんと塩肉話で盛り上がる。
「これ一口頂いてから仕事に出よう」
「一口だけな。さっさと食って出かけようぜ。仕事になんないよ」
しかしこれが一口で済むような類の旨さではなかったため、私と同僚が我に返ったときには午後をとっくに過ぎていた。
「しまった。おれまで夢中になってしまった」同僚が慌てた。「さあ。今すぐ得意先に出向こう」
「しかし、そんな赤い顔をして行ってもいいものだろうか」私は冷静に言った。塩肉と一緒に、密造酒をしこたま飲んでいたのである。
「良い銭湯があるんだ。そこでアルコールを抜いてから行けばいい」
お。同僚もやるじゃないか。そうしようそうしよう。
だが到着した銭湯は、とっくに潰れていて蕎麦屋になっていた。「蕎麦屋じゃないか」同僚が驚いた。「銭湯だと思ったんだが」
その後はもちろん、蕎麦味噌と日本酒で楽しんだ。

その頃、妻は寂しさに耐えかねて売春行為を繰り返していた。
その頃、紫色の女性は10年間慕い続けた恋人が目の前に現れ、甲板で腰を抜かした。船は波止場に着き、皆銃殺された。
その頃、ジャズ喫茶のマスターは沖縄行きの船のキップを手に入れていたが船に乗り込む前に銃殺されていた。
その頃、日付を勘違いして会場に着いた私は誰もいない深夜の公園で楽器を弾いていた。
その頃、坊やの父親はライフル銃で自殺していた。
その頃、幻覚を断ち切るためにベッドに括り付けられていた。
その頃、得意先の社長は首を吊って自殺していた。