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阿呆阿呆作戦、ざまあみろ症候群とカッコ悪症候群

きみたちは阿呆だ。
だからすぐに仕掛けられた阿呆阿呆作戦の罠に落ちる。罠に落ちないためにはその罠がいかなる罠かを知っていなければならない。
そこで、今回は今まで散々書いてきたことではあるが、阿呆阿呆作戦が内包する現代の二つの特徴について簡単におさらいしておきたい。

阿呆阿呆作戦とは庶民の頭の悪さを利用した統治の術、洗脳作戦のうちの最も効果が期待できる「奴隷同士の争い」を演出する作戦である。
権力者ならお馴染み、不満の矛先を本質から逸らし庶民同士の諍いレベルに落とし込んで自滅させるという定番作戦だ。
怒りの方向を誘導し相互監視をさせることによって思想的にも統治を図ったこの作戦の最も有名な例は江戸時代の五人組や戦時の隣組であろう。これらはすぐに徒党を組み村八分とか言って異端を排除する陰湿な国民性と相まって効果絶大であった。
村人が竹槍で「鬼畜米英」とか言って玉砕という集団自殺を目指している最中、戦争反対とか日本は負けるとかおれは兵隊になりたくないとか放射能は危険だとか神風は吹かないとか子供に20ミリシーベルトなんかどんでもないなどと言おうものなら「非国民」「危険を煽るな」と糞田舎の呑百姓や頭が腐ったネット番長どもから総攻撃を受けて幸せなファシズム社会で生きていけなくなるのである。

さてそれが所謂阿呆阿呆作戦であるが、五人組や隣組から時を経て今なお健在な作戦であり、作戦の方向性も広がりを見せている。神経症的現代人にぴったりフィットする「ざまあみろ」と「カッコ悪」というトレンドがそれだ。

ざまあみろ症候群

大体において庶民は阿呆である。阿呆とはなにかというと想像力がないということだ。想像力がないから身の丈以外のものごとを想像することが出来ない。よって身近でない巨悪がわからない。巨悪がたとえあっても目に映らない。いや、例え目に映っても脳がそれを認識できない。つまり想像を超えた怪奇現象なわけだ。もちろん怪奇現象を信じるということもないから、つまり巨悪は存在しないということになる。しかし巨悪はあるから、当然ストレスを感じている。そのストレスは攻撃先を見つけたくてうずうずしていて、そこで身の丈の小さな悪に対して怒りをぶつけることになる。
例えば3号機の爆発という大きな出来事から阿呆どもの目を反らすため、あるいは電力を人質に取ったプロパガンダのために「脅し停電」という停電があった。脅し停電じゃなくて何だったかな、何とか停電。何でもいいが。そうすると原発災害という巨悪からあっというまに停電という出来事に興味が逃げる。停電では抽象的だから次に節電という言葉に踊らされる。そこまで行けばあとちょっとだ。次は電気の無駄遣いという悪の存在を見つけようとする。悪者狩りが始まるのだ。そして民衆統治の術を心得ているある卑怯者が一言「パチンコと自販機は無駄遣いだ」と助言を与えると、愚衆はあっというまに飛びつく。「パチンコを潰せ」「自販機を潰せ」
やっと貧弱な想像力でカバー可能な悪を発見して大喜びだ。これぞ身の丈の喜び。

根底にあるのが「ざまあみろ症候群」である。誰しも気にくわないものはある。嫌いなものや鬱陶しいものがある。もちろん日常的な身の丈の近く、遠くの敵でない近くのちょっとした敵だ。嫌いなものに対してファシズムの許しが得られれば誰はばかることなく攻撃することが出来る。田舎の村八分と同じ原理である。煙草に対する気違いじみた差別と同じ原理である。
嫌いなもの、悪い物に対する集団ヒステリー的攻撃に快感を覚えるこの変態思考を「ざまあみろ症候群」と呼ぶ。
自分が嫌っている物を大っぴらに差別することが許されるこの快感は格別だ。
煙草が嫌いだったあなた、パチンコや自販機が嫌いだったあなたは普段の理知的思考回路を遮断してついうっかりファシズムの罠に落ちて攻撃の尻馬に乗らなかったか今一度我を顧みて頂きたい。

「ざまあみろ症候群」の質の悪さは誰しもついうっかり罠に嵌ってしまいがちなところにある。例えば自分が攻撃を受ける立場にあってさえ、簡単に他者攻撃を行ってしまう危険性があるのだ。
煙草差別を受けているにも関わらずパチンコ攻撃に荷担してしまうのだ。それが「ざまあみろ」の基本だからだ。被差別者が他の差別対象を見つけて喜んでいる状態と同じなのである。自覚しにくく、快感に我を忘れるのだ。

「煙草迫害なんか当然だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「飲酒運転の罰金増やせ。ざまあみろ。もっとやれ」
「消費税値上げで自営業者は死ね。ざまあみろ。もっとやれ」
「原発誘致した村は自業自得だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「民主党に投票するからだ。ざまあみろ。もっとやれ」
「ギャンブルなど害悪だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「公務員の給料下げろ。ざまあみろ。もっとやれ」
「迷惑な自転車取り締まり強化。ざまあみろ。もっとやれ」

まことに卑しいことだ。
この症候群から逃れるためには、まず誰かが誰かを攻撃したときに「ざまあみろ」とつい思ってしまう瞬間を自分で自覚することだ。そして、ざまあみろと思った対象がどれほどの大きさを持つ悪なのかを今一度問い直し、その対象を憎悪することによって憎悪から逃れる大きな存在が他にないか広く世界を眺め回すことだ。
任侠物の主人公のように「大物は雑魚を相手にしない」という基本を忘れず、憎悪は憎悪しか呼ばないというむかしの人の偉い言葉を思い返し、自分の憎悪が社会悪に利用されていないかどうか疑う癖をつけるのだ。

カッコ悪症候群

大体において庶民は阿呆である。阿呆とはなにかというと想像力がないということだ。想像力がないから身の丈以外のものごとを想像することが出来ない。よって身近でない思想がわからない。
誰もが身近な世界に生きている。物の考え方や流行は自身を取り巻く小さな世界で起きているのであるが、阿呆故それがわからない。日本中がそうだと思ってしまうのである。
例えばテレビばかり見ている人はテレビの中の世界が世の中のすべてだと思ってしまうし、ネットだったらTwitterやなんかで読んでる世界、友人関係ならその身内が話題にする思想や世界観の影響下に住んでいてそれがすべてだと思ってしまう。
ほんのちょっと天の邪鬼な人間がいて、「みんな」という言葉を嫌う傾向がある。特に若者に顕著な「みんなと同じじゃ厭」っていうアレである。ネットでは「中二病」という言葉があるらしく、なかなか言い得て妙だと思う。「カッコ悪症候群」は中二病の一部に含まれる概念かもしれない。
物事には多様性や深みやいろんなものがあって、なかなか一筋縄ではいかないものだ。深くはまり込みすぎて判断不能になってしまうのも困りものではあるが、何も考察せず本質と全く無関係な尺度で判断するのは論外だ。
「カッコ悪症候群」とは、本質外の尺度で迂闊な決定を下してしまいその時点で思考を閉ざす行為に嵌る症候群である。
簡単な例えでは、みんながガラケーを使っているときに「みんながガラケーでカッコ悪いからそれ以外を」という理由だけでiPhoneを選ぶようなことを指す。ここで重要なのは、iPhoneを選ぶ理由がiPhoneそのものになく、みんな対自分の個人的尺度、さらに言えば身の丈的尺度だけを動機にしている点だ。この例えはここに留まらず続きがある。次に「みんながiPhoneでカッコ悪いから」と、iPhoneのそっくりさんに飛びつく行為まで含む。ここで重要なのは「みんながiPhone」という事実認識、つまり「みんな」尺度の狭さ、次に「iPhoneではないiPhone如き物」に対する無警戒な信頼の危険性である。
もうちょっと違う例えだとこうなる。「みんなが原発は危険だなんて言うから、じゃあおれは危険じゃないほうに付いちゃおう」「みんなが福島から疎開したほうがいいなんて言うから、じゃあおれは福島に留まってがんばっちゃうほうを応援しよう」
「みんな」の認識が稚拙なほど狭いことにまず気づくだろうか。そして肝心な原発や放射能についての考察を一気に放棄して「自分にとっての流行」という狭い世界、頓珍漢な尺度で自らの思考を決定していることに気づくだろうか。
原発について自分の考えを突き詰めるのなら、なによりもまず原発について考えるのが正統である。それを放棄して「他者がどう言っているか」「その他者が自分を含めた狭い世界でどういう存在か」という無意味な尺度で思考を停止させるこの「カッコ悪症候群」に嵌った頭の悪さは格別である。

天の邪鬼なことは否定しない。むしろ天の邪鬼であることは思考の基本である。カッコ悪症候群の問題点は、天の邪鬼な部分ではなく、尺度が頓珍漢な上に決定がこれまた頓珍漢であるという一点に集約される。さらにいえば、実はカッコ悪症候群に嵌る人間が考える天の邪鬼感は、実はちっとも天の邪鬼ではなく、寧ろ大衆迎合であり集団心理でありやはりファシズムに片足突っ込んでる状態なのである。
カッコ悪症候群の患者が考える「みんなと同じじゃ厭」の「みんな」部分、大抵これが全然みんなではなく寧ろ少数派である場合が少なくない。それを「みんな」と思い込んで逆の思考に陥るとき、その結果こそが圧倒的「みんな」の世界なのである。ここ難しいからよく考えて。患者が「カッコ悪い」と思う対象は実はよくよくみてみると反大衆的である場合がほとんどなのだ。
カッコ悪症候群の患者は実のところ全体主義者であり、全体主義に反する物事を見つけると「それが流行っている。嘆かわしい」と感じるのである。そして、その流行っている物事の正反対を主張しはじめ、権威の片棒を担ぐ仕事に勤しむわけなのである。その仕事こそが尊敬する権威からの指令であり洗脳の結果だと気づかずにだ。

「みんなが放射能が危険と煽っている。カッコ悪いから自分は安全を強調してやろう」
「みんながチェルノブイリの悲惨さを語っている。カッコ悪いからチェルノブイリは大したことないと言ってやろう」
「みんながミニシアターでヨーロッパ映画を見ている。カッコ悪いから自分は大ヒット作だけ見ることにする」
「みんなが煙草をカッコいいと思ってる。カッコ悪いから煙草嫌いに徹しよう」
「みんなが小出助教の話を聞いている。カッコ悪いからあいつは信用しないでおこう」
「みんなが原発を止めろと言っている。カッコ悪いから止めなくて良いという立場に立ってやれ」
「みんなが震災について真面目に語っている。カッコ悪いから震災の話はしないでおこう」

まことに卑しいことだ。
この症候群から逃れるためには、まず身の丈の小さな世界から脱出し、出来る限り大きな世界を認識することだ。思考の対象はその対象そのものであるという自覚を持ち、無関係な尺度を当てはめようとした時に間違いに気づくことである。

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